神崎遺跡:東海から南関東への集団移住を示す遺跡。近隣のグルメ、温泉情報あり。
AD200年頃(弥生時代後期)の集落跡の遺跡。
集落の規模は、同時期に10~15件程度の竪穴式住居が存在していたと想定されています。
50人~90人ぐらいの集落で、敵に備えるための環濠を備えた集落となっています。環濠の深さは1.8mとかなりの深さです。
発掘調査の結果から、この集落は東海地方から南関東へ集団で移住してきた人たちの集落であることがわかりました。
これだけの規模の人々が移動したという事は船で移動したと考えられています。
船で集団で移動したということは、移動しながら移住場所を探したのではなく誰かが事前にこの場所を見つけ準備をした先発隊がいたと私は思います。
東海地方から移住してきた事が分かったのは、出土した土器からです。この遺跡の土器は周辺の関東系の土器とは
明らかに異なる種類の土器を使っていました。以下の左が東海の伊場遺跡、右が神崎遺跡から出土した土器です。
ほぼ同じものであることが分かります。
左は、神崎遺跡出土の壺形土器です。右は、神崎遺跡から出土した「櫛描文」がついた土器破片。
「櫛描文」は伊場遺跡など東海地方の土器につけられた特徴的な模様です。
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さて、なぜ人々は東海地方から200Kmを超える距離を移住してきたのでしょうか?それは、その当時の時代背景があると考えられています。
AD200年頃は、中国「魏志倭人伝」に記載のある倭国大乱の時代で邪馬台国が誕生する頃の時代と重なります。
日本では、中国/朝鮮半島の入口である九州地方から西日本地域が戦乱の中心地と考えられます。
東海地方の人々は戦乱を逃れて比較的、人口が少なく戦乱のない関東地方へ逃げてきたのではないかと考えられます。
当時はこのような集団が多数いたのではないかと思われます。
神崎遺跡の近隣には同時期の遺跡がいくつかありますが、そのうちの一つ高田遺跡(以下写真)も環濠に囲まれた集落となっています。
これら集落の環濠は、隣同士の集落の争いごとに備えるというより、西からの戦乱の拡大に備えるものだったのではないでしょうか?
神崎遺跡の発掘調査結果から、この場所は移住前には集落はなく、移住してきた人々は短い期間でこの場所を去ってしまったことが分かっています。
どのくらいの期間定住したかは不明ですが竪穴式住居の建て替えが行われた跡があることから40~50年程度ではないでしょうか。
ここを去ってしまった人々は次はどこへ行ってしまったのでしょうか?
この場所に次に集落が現れるのは約500年後の古墳時代です。
アクセス
横浜駅から
■横浜駅
37分(相鉄本線快速 海老名行)
■海老名駅
(長16)長後駅西口行バスにて20分 「根恩馬」バス停下車すぐ。
泊まる・温泉
おすすめ温泉 OYUGIWA 海老名。富士山が見える温泉。露店岩風呂がきもちいいです。
グルメ
海老名駅前にある「ららぽーと」内にあるJ.S. BURGERS CAFE。
写真はアボガドバーガーのセット。ジューシーなお肉にトロリのチーズがとてもおいしかったです。J.S. BURGERS CAFE
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