日本の古代遺跡を楽しむ

弥生時代の遺跡記事一覧

平原王墓は、弥生時代後期の墓で、40面という大量の銅鏡が出土しています。出土した銅鏡の中からは直径46.5cmという当時としては最大級の銅鏡が出土しています。当時の銅鏡は、とても貴重なもので、大きさもさることながら、その数も当時の墓としては特別なものです。ホームページが移動しています。この記事はここから

AD200年頃(弥生時代後期)の集落跡の遺跡。集落の規模は、同時期に10~15件程度の竪穴式住居が存在していたと想定されています。50人~90人ぐらいの集落で、敵に備えるための環濠を備えた集落となっています。環濠の深さは1.8mとかなりの深さです。発掘調査の結果から、この集落は東海地方から南関東へ集団で移住してきた人たちの集落であることがわかりました。これだけの規模の人々が移動したという事は船で移...

登呂遺跡はAD0からAD250年ごろに存在した弥生時代の遺跡です。住居跡や祭殿跡、そして弥生時代の特徴である広大な水田跡が見られる貴重な遺跡です。アクセス 東京駅から  ■JR東京駅   60分(新幹線ひかり)  ■静岡駅   静岡駅からタクシーにて15分  ■静岡駅からレンタカー   レンタカーのご利用は、以下から。出発地は、静岡県 静岡駅を選択すると最寄り駅となります。泊まる・温泉おすすめ温泉...

平塚川添遺跡は、BC100年からAD300年に存在したとされるクニの一つと考えられています。ここがかつての邪馬台国であったとの説もあります。中国の歴史書、魏志倭人伝によるとこの時期日本は百余国に分かれて争ったとの記録があります。この遺跡もその中の一つと考えられます。稲作の発達により、保存可能な米を蓄える事が出来るようになり、安定的な食生活をおくれるようになりましたが、それを奪い取る争いごとの種にも...

須玖岡本遺跡は、魏志倭人伝に出てくる奴国の中心地と考えられている遺跡です。BC200年頃からAD200年頃の間で栄えました。奴国とは、教科書にもでてきたAD57年に中国 後漢の光武帝より金印(下写真)を賜った国です。この須玖岡本遺跡は、奴国王家の墓群と考えられています。ホームページが移動しています。この記事はここから

縄文時代よりこの地に人々が集まり生活を営んでいました。BC300年頃に最盛期を迎えました。弥生時代の有力なクニの一つと考えられており、邪馬台国との説もあります。上の写真は、遺跡内最大の建造物で、祭殿と考えられています。下の写真は、遺跡の全景です。多くの建物と広大な水田を持っており、豊かなクニだったと考えられます。ホームページが移動しています。この記事はここから

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